1977年 Chris Simmondsによるインタビュー

1977年 Chris Simmondsによるインタビュー
Guitar Player 1977年6月号(Vol. 11, No.6)より引用

「俺もエドガーも別に誰から歌うこと、楽器を弾くことなんて教わったわけじゃないんだ。 普通の子供達がTVにかじりついている代わりに俺たちはピアノで遊び、両親と歌うことを楽しんで育ったんだ。 それは丁度歩いたり、喋ったりすることを自然に覚えるというのと同じようなものだったわけさ。 この頃ロックン・ロールはまだ誕生する前だったから音楽といえばもっぱら親父の聴いていたベニー・グッドマンやアーティ・ショウだったんだ。 従って俺が最初に始めた楽器もクラリネットでね。 随分練習したんだけど、ある日歯医者からそれ以上続けるとひどい出っ歯に成ってしまうといわれて泣く泣くやめたわけなんだ。 けど何かやらなければ気がすすまなかったのでたまたま家にころがっていたウクレレを始めたわけ。 親父の手ほどきで何とかコードを覚え始めてね、思えばこれがギターにつながる最初のきっかけだったわけさ。 そして11才になりギターにも十分な手の大きさになった時、多分ひい婆さんから伝わっていたものだと思うけど、 ネックがまるで魯みたいに反っちまった――古いギターでこれまた古い民謡なものを弾き始めたわけなんだ。 そして間もなくリトル・リチャード、エルヴィス等のロックン・ロールの洗礼を受けるわけなんだが、同じ頃初めて聴いたブルースに俺の全ては決まってしまったんだ。 ロックン・ロールはそれまでの俺の思っていた音楽を変えてしまったんだが、ブルースはそれ以上に俺の魂を揺さぶったわけさ。 当時の全てのブルース・メン、ラジオから流れる一曲から手に入るシングル盤の一枚まで、とにかくたまらなかったわけ。 そしてその全てからちょっぴりずつ何かを学んで行ったわけなんだ。

自分で買った最初のギターは、ギブソンES-125だったんだ。Fホールでワン・ピックアップのね。 もちろんまだハムバッキングのピックアップなんて出てない頃だったし、フィード・バックもひどかったな。アンプもフェンダー・デラックスという小さなものを手に入れたんだ。 当時は今のような大きな音でプレーすることはなかったから8~10インチのスピーカー1個で十分だったからね。 それに俺たち兄弟のやる曲もエヴァリー・ブラザーズ的なものがほとんどでまだバンドを組む前のことだったからね」

こうしてブルースに取りつかれていった兄弟ではあるが、彼らの故郷テキサスの大衆にはうまく受け入れられず、 逆に当時地方にまで広がったヒッピーたちから”サイケデリック・ブルース”と評され話題を集め、 これが彼ら兄弟の実質的スタートとなったわけである。 そして活動を中央に移した彼らは、ニューヨークのスティーヴ・ポールにマネージメントを任せるのだが、 彼の持ってくる仕事は割の合わないレコーディング契約や、 ジミ・ヘンドリックス、バディ・マイルズといったようなビッグ・アーティスト達のセッション・パートナーを務めることであったという。 彼自身の「俺のスタイルは、この頃にすでに完成されていた」という言葉通り、最初のレコーディングにつながったウッドストックでの評判はまたたく間に広がり、 1969年、マディ・ウォーターズの影響を強く示した野性味溢れるアルバム「ザ・プログレッシヴ・ブルースエクスペリメント」が発売された。 そしてこのときのカバーに登場しているのがジョニー秘蔵のナショナル・スチール・ギターなのである。

「何台か持っているんだけど、各々完全に違った音なんだ。 古いのはほとんどネックが反っているんで物凄く弾きにくいけどサウンドは文句無しご機嫌なんだ。 スタイルも、リゾネーター、ボディのメタル等各々皆違っていて、実に12フレットでジョイントしてしまうショート・スケールなんだ。 従ってほとんどオープン・チューニングに限られてしまうんだ」 “テイク・ブローク・ダウン・エンジン・オフ”という曲がこのアルバムでナショナルと彼のオープン・チューニングのプレーを聴くことができる曲である。

「ナショナルでは常にスライドで弾くわけなんで弦高はすごく上げてあるんだ。 大体普通のオープンAとはEなんだけど、従来の場合より強く、指で掻き鳴らすように弾いているんだ。 それも人が考えるようなアコースティック・ピッキングとも大分違ったもので説明しにくいな。 勿論サム・ピックをつけるわけだけど、これも俺の場合マンドリンを弾く時でさえ付けているものだからね。 レコーディングの時は、ブリッジから数インチの所までマイクを近づけてプレーするんだけど、 最初のアルバムで使ってみた時よりも9年後に出た「ナッシング・バット・ザ・ブルース」というアルバムで使ったナショナルが最高のものだと思っているんだ。 普通のエレキとしては、フェンダー・ムスタングをほとんど使っていたんだ」

そして’69年後半に実質上3枚目のアルバム(一枚目以降コロムビアに移り、すでに「世紀のスーパースター/ジョニー・ウィンター」を出していた) 「セカンド・ウィンター」が出たのだが、サウンドはますますヘヴィーになり多少の変化が生じていた。

「そろそろ大きなブルース・ブームも消えてゆきつつあったからね、俺もますますロックン・ロールに影響されていったわけさ」

しかし1作目同様この2作目のプロデュースを担当した、ジミ・ヘンドリックスのプロデューサー、エディー・クレイマーの構想は早くも失敗に終わってしまった。

「エディーは、ともかくジャズ・フリークでね、全て俺の思惑とは全く違い全編ジャジーなものにしようとしたんだ。 このため途中でついに意見が合わなくなって、あいつは手を引いてしまったのさ。 そこで俺は「世紀のスーパースター/ジョニー・ウィンター」では参加しなかった弟のエドガーを呼んでね、サックスとキーボードのほかにアシスタント・プロデューサーもまかせたんだ。 一応自分自身プロデューサーとしてクレジットしてあるけれど、そんなわけでほとんど済んでいたエディーの仕事をミックスし直しただけなんだ。 そして何曲かのロックン・ロールをさらにヘヴィーに、サイケデリックなスタッフにしたというわけさ。俺達兄弟が互いに協力し合うことはこれからも変わらないことさ。 もしも俺のレコードにホーン・セクションとキーボードが必要ならエドガーに頼むし、彼は俺のやりたいことを十分知っているからね。 そして彼のものには、曲を書くし、ギターも弾いていくつもりさ。しかしわれわれの音楽性は、常に全く違った方向を進んでいる場合が多かったんだ」

こうした中でジョニーの愛用するギターにも変化が起こり、この頃、まさに生涯の愛器というべきギブソン・ファイアーバードとの出会いが始まっていた。

「セントルイスの友人で全米を回りオールド・ギターを探し、また機会ある思って探していたわけ。 数ヶ月前に手に入れたばかりでまだ使う機会がないんだけどその内に是非試してみたいと思ってるんだ」

1971年、「セカンド・ウィンター」以来のジョニーに新しい活動が始まった。 スティーヴ・ポールの傘下に新たに生まれたリック・デリンジャーをフロントにしたマッコイズへの参加であった。 かなり商業化されたファショナブルなバンドであったがもう一つホットな売り物に欠けていたマッコイズに参加したジョニーは、 こうした商業ベースを一蹴してのバンドをフレッシュ・アップしたギンギンのロック・バンドへと変えてしまった。 そしてウィンター&マッコイズの一作として「ジョニー・ウィンター・アンド」が出来上がった。

「俺のスタイルは、変わったところはなかったよ、但しトリオでプレーすべき部分がずっと多くなったことは確かだけどね。 でも互いにもたれ合ったり、ハーモナイズしたり、かけ合いでプレーすることは実に面白かった。 でも人気が増すにつれてわれわれのライヴには音楽を聴きに来るよりショーを見に来る人達でいっぱいになってしまったんだ。 これは俺の本意ではなかったから滅入ったね、人気の高まりにつれますますステージはハデにエスカレートしていく、正直言って疲れてしまったんだ。 その上ドラムは、ロック一本やりでブルースやシャッフルはまるきしだめでやりにくいときが多かったんだ。 アルバム自体は一番売れたこともあって嫌いにはなれないけれど、 やはり「ジョニー・ウィンター」とか「俺は天才ギタリスト!」、「スティル・アライヴ・アンド・ウェル」と最近の二枚のほうが気に入っているよ」

こうした彼自身の問題とマッコイズの間に広がったズレは、ジョニーを薬への逃避へ向かわせた。そして結果的にはリックのもたらしたマッコイズがジョニーを支えてきたのに、という不満が両者の間に決定的なピリオドをもたらせてしまった。

「当時マッコイズのチケットなんて一枚も売れやしなかったんだ。ポールとリックがその上で俺の所へ売り物が必要だから、と頼んで来たわけさ、 最初こそマッコイズ・プラス・ジョニー・ウィンターだったけど、直ぐにマッコイズなんて意識はふっとんでしまったはずだぜ。 確かにリックは上手いギターだったが、当時誰もそんなこと気にとめる人はいなかったし、 彼はつい最近までジョニー・ウィンターのリズム・ギターという以上取り沙汰されたことなんてなかったんだぜ。 それにそんなこと言い始めたのも俺が薬で病院にかつぎ込まれた後なんだ、あいつ俺がもう死ぬとでも思ってあんなくだらないことを言ったんじゃないか。 今となっては敵対心など持っちゃいないけど、二度と会いたいとも思わないね。 とにかく当時のメチャクチャなツアーの連続には誰もが気狂いじみてしまった時代だから」

一年の病院生活の後ジョニーは、この頃兄同様ビッグになっていたエドガーのツアーに同行し彼のライブ・アルバム「エドガー・ウィンター・ライヴ・ロードワーク」に参加した。

「あれはきつかったね。6ヶ月もギターにさわりもしなかった時エドガーが気を使いながら持ちかけて来た話だったんだ。 引き受けたものの大したプレーは出来なかったよ。 元の感じを取り戻すだけで1ヶ月、さらに猛練習を重ね完全にカムバックするには1年位は必要だと思っていたからね」

カムバックしたジョニーは’74年に「俺は天才ギタリスト!」を出し、ここではかつて見られなかったような”ストレンジャー”、”レイ・ダウン・ユア・ソロー”等の美しい曲を演奏している。 そして’76年には「狂乱のライヴ」と続けた。 これは前の「ジョニー・ウィンター・アンド・ライヴ」の焼き直し盤でリック・デリンジャー役をフロイド・ラドフォードが務め、 “スィート・パパ・ジョン”は二人を比較するには絶好の曲である。フロイドはES-335を再調整されたマーシャルに通しプレーしている。 そしてさらに特筆すべき点は、ジョニーのMXRフェイズ・シフターによるギター・サウンドであった。

「ここで使ったアンプは、マーシャルとアンペグのコンビネーションだったと思う。 山積みされた機材を横にプレーしたことなんてなかったし、そんなつもりもなかったんだ。 正直なところ大観衆を前に巨大な会場でいかなる装置を用いたらいいのか全く分からなかったんだ。 当時、P.A.のセットも大したものはなかったしそこで前に見たクリームとかヘンドリックスのビッグ・ショーを思い出しアンプを沢山使えばいいと考えたわけさ。 今考えるとおかしな話さ・・・。 現在はモニターを兼ねるミュージック・マンのヘッド・アンプにスピーカーの大きさを必要に応じて変えて使い分けているんだ。 現在のマディのところのギター、ボブ・マーゴリンも同じアンプを使っているよ」

最近のジョニーのスタジオ・ワークは実にシンプルに、そしてライヴに忠実になってきている。

「もしもオーバー・ダブが必要なら、まずリード・ギターを先に取るんだ。 それもトリオでの演奏に、さらに空白を感じた時に限り、リズム、その他、必要と思うものをダブして行くんだ。 「ホワイト・ホット&ブルー」というアルバムでは、ミュージシャン達がブルースに慣れていなかったことから一番長い時間をかけてしまった。 特にハード・ロック出身のドラマーには、メトロノームまで持ち出し練習してもらったからね」

「ナッシング・バット・ザ・ブルース」「ホワイト・ホット&ブルー」の2枚は、ジョニーの最近のアルバムであるが、ここでは彼のブルースへの回帰が大きくクローズ・アップされ、そこにはマディー・ウォーターズの共演が見られる。そしてマディーの一線復帰をなした「ハード・アゲイン」「アイム・レディー」そして最近のライブ・アルバムの両方共、ジョニーのプロデュースによるものであり、彼のギターもフューチャーされている。

「俺のブルースへの回帰は偶然がもたらしたものなんだ。マディーのプロデュースした後、それが好評だったので、まだブルースは生きていると確信し、彼との小さなツアーの後そのままのメンバーでスタジオに入り「ナッシング・バット・ザ・ブルース」を作り上げたんだ。そして、それが受け入れられたのを見て「ホワイト・ホット&ブルー」を作ったわけなんだ。
マディーとの出合いは、30年も所属したチェスから彼が契約切れで売りに出されたことからなんだ。最近の人々は、マディーのピークは終わったと断言し、もっぱら彼の再盤にしか興味を示さなかったし、誰も彼に手を貸そうとしなかったんだ。彼はレーベルからレーベルへとたらい回しにされ、怒った彼とマネージャーは、二度とビジネス本意の契約はしないと宣言したんだ。その時、俺は、もし彼が本気で俺とやってもいいと思うのならと切り出し、彼と話した所、マディーはすっかり乗り気になってくれてね、そしてすべてが実現したわけなんだ。「ハード・アゲイン」では、実質上彼はほとんどギターを弾いていないんだけど、彼の示してくれる曲を俺とボブとが弾いているんだ。そしてその後のツアーで初めて彼のプレーに本格的に接したのだけれど、それは素晴らしいものだったよ。以後我々はすっかり意気投合してしまったんだ。
彼はハイ・トレブルからベースにシフトできるスイッチの付いたテレキャスターを使っているのだけど、それを使ってスライドでプレイする時、スライドとフレットが当たるような音がするんだ。てっきりその音だと思っていたら、なんとそれはこのトレブルとベースを切り替えるスイッチの音なんだ。従ってスライドさせ、出る音以上に聴こえる音は上下の変化を持って出て来ているわけで、時にはスライドさせずに同じような事も出来るわけなんだ。」

こういいながら身振りを入れそのテクニックを説明してくれたジョニーは、最後にプロデューサーとしての印象を語ってくれた。

「自分のものをプロデュースする場合と全く逆だね、つまりエゴは禁物だということ。俺は彼の欲求に出来る限り協力しなきゃならないわけ。口には出さないが、彼がその時のボス、ということなんだから、でも結果的には我々の考えがほとんど同じだということがわかったわけなんだ。そして今は彼のような偉大なブルース・マンに受け入れられたことを喜んでいるし、こうしてまたブルースをプレーする自分にすっかり納得しているわけなんだ。
もし人々が俺のブルースに耳をかさなければ自分自身のためだけにでもブルースを弾き続けるだろうし、ましてそこに俺のブルースを聴いてくれる人がいる限りはいつでも俺の準備はOKなんだ。さあ、オー・イェー!と声をかけてくれ、と言うだけさ」