1971年 Billy Walker によるインタビュー

1971年 Billy Walker によるインタビュー
Musikexpress/Sounds 1971年2月号より引用

Q:そもそもブルースやロックン・ロールのギタリストとしてスタートしたのですか?

Johnny(以下J): 実際には何でも屋だったな。テキサスじゃクラブの客が求めるものは何でも演奏しなきゃブン殴られるかクビだった。始めた頃には何でも演奏したよ。チャック・ベリーは俺のビッグ・アイドルで50年代のヘンドリックスだ。出て来るギタリストはみな「ホンキー・トンク」とか「ジョニー・B.グッド」といったところを演奏してた。俺たちもその手のロックから始めて、それからファッツ・ドミノに近いちょっと変わったロック・ミュージックがあって、そういったのを沢山やったさ。

Q:当時のギグはどんな感じでした?

J:好きだったよ。金にはならなかったけど好きだった。聴いていてくれるなら誰相手にも演奏したし、そりゃ素晴らしかったさ。

Q:弟のエドガーはあなたが15才のときに一緒に始めたのですか?

J:エドガーと俺はバンドを組む前から一緒に演奏していた。弟は3歳下で、俺が14歳でバンドを始めたときエドガーは11歳だったんだ。でもバンドで一緒にやる前はエヴァリ・ブラザーズみたいに二人ともギターを抱えてやってたんだけど、エドガーはギターは苦手と決めてピアノをやり始めたんだ。最初のバンドはピアノ、サックス、ベースとドラムだった。

Q:あなたに特に影響を与えたブルース・アーティストはいますか?

J:特に一人というのはないけど、何人かお気に入りはいたよ。ブルースなら何でもきだったな。俺はブルースの虜だったんだ。 歌ではマディ・ウォーターズが好きで、お気に入りのシンガーの一人だ。 ロバート・ジョンソンはベスト・スライド・ギタリスト、リトル・ウォルターはベスト・ハープ・プレイヤー、ウィリー・ディクソンはベスト・ベース・プレイヤーでキマリだ。 いいピアノ・プレイヤーは山ほどいるが、オーティス・スパンが一番だな。だけどみなそれぞれ違ったものを持っていて比較はできないだろう? B.B.キングはスタイルではベストだな。質問に無理があって、セゴヴィアをチャック・ベリーと比較しようというようなもんで、できないし不可能だろう。 影響を受けた人は山ほどいて、俺は耳に入って来たもののすべてから影響を受けたのさ。

Q:テキサスは荒っぽい土地柄で、ギグでトラブルはありませんでした?

J:ああ、毎度のことだよ。実は俺がソリッド・ボディのギターを使い始めたのは殴れるからだったんだ。 オールド・ギブソンを持ってチューニング・ペグをしっかり巻いて、悪態をついてからブン殴るしかなかったんだ。 誰かやって来て「おう、曲を頼んだろう?」って言うので、「すいませんあの曲は知りません」と答えるとする。 すると帰ってくる答えは「このヤロウ、それぐらい知っとけ、さもなきゃ失せろ」だから、 いくらか思い出してやってるとまたやって来て「このヤロウ、こんなのはダメだ、レコード通りじゃねえじゃねえか。 おう、こんなステージなんぞぶっ壊してやる」――んでもって、二度と起き上って来ないようギターでブン殴っちゃえってことになるわけさ。 じっさい誰も起き上がっちゃ来なかったし、ネックを持って振り回せばチャンスはないさ。

Q:その聴衆というのはテキサスの白人ですか?

J:ああ、田舎モンの白人でかなりの荒くれ、テキサスの地ビールをタップリ飲んでるときは特にそうさ。

Q:大勢の黒人の聴衆の前でプレイしたことは?

J:あるよ。自分の個人的お楽しみでやってたな。ボーモントの黒人クラブでザ・レイヴンという名のクラブがあって、覗きに行って聴いてたんだけど、 そこでB.B.キングに会って初めて一緒に演奏した。ボビー・ブルー・ブランド、ブルー・ジュニア・パーカーといった人たちが演奏しに来ていて、 いつも白人は俺だけだったけど楽しかったな。レイヴンの人たち相手にはブルースを演奏できたし皆ブルース・ファンだったんだけど、 白人聴衆相手にブルースを演奏すると引いちゃったんだ。レイヴンの人たちはブルースを受け入れてくれたし俺を受け入れてくれた。 そこじゃ俺は唯一の白人で珍しいし、そのことは皆知っててね、そりゃ素晴らしことだったさ。 実際、他の場所にいるよりもそこにいるほうがずっとアット・ホームに感じられたな。 だから俺は白人のためのギグを食い扶持のためにやり、ブルースを演奏するために黒人クラブに出かけて行ったわけさ。

Q:いまだに「白人にブルースは演奏できない」という意見に出くわすことがありますか?

J:あるよ。そういう人はときどき。とびきり素晴らしかったことの一つはB.B.キングがトリで俺がフィルモアで演奏したとき、 俺が初めて大観衆を前に演奏をしたときのことだった。ニューヨークへやって来て、俺たちが演奏をしてB.B.も演奏して、ギグのあとで彼は黒人の若い娘と話していた。 その娘は「あなたは素晴らしいわ、偉大な男よ、でも何であの白い小僧と一緒じゃないとならないわけ? 不名誉だわ、あんなク○○○レと同じステージに上るべきではないわ」と言ったんだ。 するとB.B.は「ちょっと待ってくれよ」って言って、――この話が素晴らしいのは俺がその場ではなく柱の後ろに立っていてB.B.は俺に気づいていなかったってことだ――、 「ちょっと待ってくれよ。あいつはマジでイイぜ、黒人じゃないし、少し違った演奏をするかもしれないが、いいブルースを演奏する。あなたは間違ってるよ」って言ったんだ。 俺はもう泣きそうだったぜ。ほんとうにスゴイことだって、信じられなかったからね、ほんとうに幸せだった。

それよりも前にオースチンでプレイしたときにマディ・ウォーターズも同じことを言っていた。 こういった黒人はたいてい自分達のまわりの世間だけで演奏してきたから、何が望まれているのかは知らないんだ。 白人は彼らの音楽をずっと嫌ってきて今でもそうなんだけど、黒人ミュージシャンがトシ食ってモウロクしてくると突如として白人の一部が、 ここにいるような若い奴らが彼らの音楽のファンになるんだ。黒人達にはそんなこと理解できずにブルースを薄めちまうことしばしばで、 皆が聴きたがるというので悪い例を言えば「Outta Sight」のようなソウルの曲やジェイムズ・ブラウンやオーティス・レディングの作品をやるんだ。 彼らはオースチンでステージに上ってこの種の作品を演奏し、そして誰もついてゆけずにガッカリしてて、 んでもって俺が古い曲を自分のヴァージョンでやりたいように演奏し、それからマディが次のセットでステージに登場して、これこそがブルースってのを演奏してぜんぶ蹴散らしちゃったというわけさ。

ステージを済ませてマディは言うんだ、「おい、おまえは俺の曲を俺が25歳のときにやったように演奏するなあ。俺は年寄りで同じ曲を毎晩演奏してきたけどあの曲は好きだったんだぜ」ってね。でも同じ曲を毎晩プレイすると何かを失うんだ。 なが望むから「マディ・ウォーターズは”フーチー・クーチー・マン”をやらにゃ、こいつらも全部やらにゃ」といった具合に自分自身のカリカチュア(風刺画)になってしまう。ギグはその時限りだし、彼は年寄だし、60歳になって期待のもてるものなんぞほとんどなくなったとき何をしたいと思うかい?それと同じことだ。そしたら俺たちが若くて音楽に熱中してて、大量のエネルギーや情熱を注いでいることに気づいたから「おまえはあの作品を俺が昔やったように演奏する」と言うわけさ。実に馬鹿げたことさ。インタヴュアーは黒人ブルースマンがどう言っているのか俺に話しちゃくれないけど、俺が彼等の音楽を俺のやり方で演奏していて、彼等がそれを認めてくれて好きだってのは馬鹿馬鹿しさを通り越してスゴイことだぜ。

最悪の出来事のうちの一つは頼まれたんでメンフィス・ブルース・フェステヴァルで演奏したときのことだ。そのフェスはずっと黒人のためのものだったのだけど、出演者に白人をいくらか入れればもっと聴衆を引き寄せて老人たちのためにもっと金を手に入れることができると考えたのさ。俺は他人の食い扶持を奪ったりしたことはないけど、俺や他の世界のすべてのロック・スター――エリック・クラプトン、ローリング・ストーンズ、ビートルズ、全部――がそうしていると思われていて、アンプを沢山使ったって理由で俺だけが取り上げられてひどく叩かれてしまったことがあったんだ。俺たちが演奏しているとハープ・プレーヤーのジョニー・ウッズがセットの間に現れて俺をつかんで抱きしめて、「おう、君はエルモア・ジェイムズ、エルモア・ジェイムズだ」と言って大喜びしていた。そして1年後にそのフェスについて読んだらこう書いてあったんだ。ジョニー・ウッズはそこにあったアンプの数を見てビックリしたしウンザリした。俺たちはのどかな雰囲気をぶち壊した、鳥もビックリしたし、木も俺たちのことが嫌いだった、だとさ。わかるだろう。俺はこういった老人たちを助けたいだけだったのだから、傷ついたし本当に気も狂わんばかりだったさ。そのとき俺はブルース・ピュアリストが嫌いになっちまって、俺がホントに好きなのはピュアリストとは全く無関係ない人とか、ブルースで尻をド突かれたって何か知ろうとしないような知性ある人だな。

Q:新しいバンドへのアメリカでの反響は最初の頃はどうでしたか?

J:俺たちはビクビクしてたし、実際どう評価されるのか心配していたさ。今のマッコイズを見ろよ。汚名が完璧に晴らされてすばらしいじゃないか。奴らは古き良きロックン・ロール・バンドのうちの一つだったんだが、以前はク○○○レの切れっ端、バブルガムの切れっ端、そういうレッテルを貼られていたんだ。決してそうじゃなかったんだけどね。もし俺が加わっても何もなかったとしたら、かえってツヤ消しだったとしたら、俺は笑い者になったろうし、おっかなびっくりだったわけさ。その点でマッコイズにとっても俺にとってもおっかなびっくりだったな。

奴らに対する世間の評価はすでに決まっていて、じっさい良い批評をいくつか受けていたんだけど、「ハング・オン・スルーピー」のために認められず、そして俺についてもそんな風に思われ始めていたんだ。というのは俺は自分の演奏をしたし、人々の期待するようなものは何も演奏しなかったからね。俺はそれで良かったと思うし、それこそ俺がしたかったことだったのだけど、現実は違っていたね。で、俺たちは一緒になって笑い者になり、それこそ大笑いにもなりえたのだけど、
突如として「おお素晴らしい、ジョニー、スゴイぜ、世界でもっとも偉大なブルース・ギタリストの一人だ、マッコイズ、もっとも偉大なロックンロール・バンドの一つだ、見てみろよ」って完璧に受け入れられたんだ。俺たちはどんなことも覚悟していたし、ビール缶やらトマトも覚悟していた。何が起こるかは分からなかったけどいい音楽になると思っていたから皆が好きになってくれることを願っていたさ。

Q:ステージのために十分リハーサルすることはどれぐらい重要だと思いますか?

J:聴衆はステージに何か特別なものが求めている。レコードで聴けるからステージに立ってるのを見るだけじゃ満足できないんだね。聴衆は良い音楽を聴きにショウに行くんだ。でもステージで立ってるだけで誰も動かず、尻を振るわけでもないのを見ているのは退屈だからって理由でサン・フランシスコ中のバンドがライト・ショーをつけなきゃならないんだ。次のコードにドンピシャで移れるかどうかは心配しなくちゃいけないけど、飛び回ることなどどうでもいいし、ちゃんと演奏してショウをやればそれで十分良いミュージシャンだ。隣の部屋の奴がステージで何をするか知りたくもないし、知りたい奴は見に行けばいい。誰かが出演中で、良い曲を演奏中で、ってのを見たいなら、それだけじゃ不足だとか物足りないとか思わないね。そう思うだろ。それがショウビジネスのエンターテイメントってやつさ。

Q:「ジョニー・ウィンター・アンド」では沢山の曲を書きましたね。曲作りは楽しいですか?

J:楽しんでるよ。あのアルバムではバンドは始動したばかりだったんで、今は早く家に帰って曲作りをしたいね。ていうのは俺たちはあのアルバムではバンドのための曲は何一つ書いちゃいなかったからね。リックは3、4曲すでに書いていて、俺には書いてあった3つ4つがあって、集まって「俺はお前の曲をやるからお前は俺のをやってアルバムに入れよう」って、曲を重視したアルバムにと考えていたんだ。俺のアルバムはいつもほんとにフリー・フォームな演奏で、曲はまったくなく、ジャムとギターの演奏だけだった。このアルバムでは曲を書いてジャムよりは曲を演奏しようとしたんだ。もうすぐ出る次のアルバムはライヴ・アルバムで、もっとジョニー・ウィンターらしいよ。ファンは今でもギターモノとかエキサイトメントなモノに多くの期待を寄せているからね。約3週間以内にはライヴ・アルバムを発表するよ。前とは違って古い曲やロックン・ロール物をやる。そういう時期だと感じたんだ。でもツアーが終わったら俺たちはまた一緒になってバンドのための曲作りを一緒にするんだ。

Q:曲作りやプロデュースにもっと時間をかけたいと思いますか?

J:一番やりたいことを今やっているんで、もっと時間は欲しいけどいま俺がやっていることから時間を割きたくはないな。ちょっと曲を書く時間は欲しいし、今の流れからすれば「実に悪いプロデュース」をしたい。古いブルースをしかるべきサウンドに聴こえる方法でプロュデースしたいという人はまずいないと思うけど、俺はそれがやりたいんだ。俺がマジでプロデュースしたいのはマディ・ウォーターズ、ライトニン・スリム、ライトニン・ホプキンスといった人たちで、そう思うのはちゃんとプロデュースされていないからなんだ。今はステレオの時代でそんな方法は廃れちまってるがね。

ジェリー・リー・ルイスやチャック・ベリーといった人たちがレコーディング方法のためにもうヒットレコードは作れないと言っていた。昔は部屋の真中にマイクを1本立てて全員で演奏したので、音の剛球のようなものが現れてギターの音などはっきりとは聴こえなかった。ステレオってのはリアルなのではなくてきわめて客観的な方法で、演奏されたそのものではあるけどライヴで聴こえるものとは違うし、ブルースやロックン・ロールには聴こえない――ハードさが足りないんだ。ステレオでは個々の楽器が聴こえるけれど、音の大玉は飛んでこないよ。

リチャード・ヴァーノンはこの種の作品のプロデュースでほんとにいい仕事をしてる。奴はちゃんとやれると思う数少ない一人だ。俺は奴と契約しに行ったことがある。10年も演奏し続けたのに何も起こらなかったので、「すべてのブルースはイギリスにありか、行ってみるか」ってことでアメリカで成功する前にロンドンへ行ったんだ。美容師をしていたオフクロの有り金持ってロンドンに行って、2週間後にブルー・ホライズンでレコーディングする契約をヴァーノン兄弟ととりつけた。そしたらアメリカで事がおっ始まったんでアメリカにいた方がいいってことになったのさ。もしロンドンに行っていたらどうなっていたにだろうかと思うね。

Q:最新のアルバムの1曲であなたははっきりとジミ・ヘンドリックスのように聴こえますね。これは意識的な試みですか?

J:曲をいじくったのはリックさ。奴はなんでも調整して聴いたこともないような風にやってのけたんだ。俺はそれが大好きさ。その曲はどちらかといえばジミ・ヘンドリックス風の曲で、その種の影響があるな。

Q:誰かヘンドリックスに代わる人が出ると考えますか?

J:いや、あんな奴はもう出ないだろう。

Q:あなたがもっとブルースに回帰する可能性があると思いますか?

J:ああ、実際そうなっているよ。次のレコードでもいくつかやるし、俺たちはロック・タイプの作品もいくつかやる。それはカントリー・ブルースになるだろうがちょっと違っているだろうし、正確には分からないんだけどきっとカントリー・ブルース志向のものになるだろう。あらゆるブルース作品をとてもブルージーに採り入れることになるだろうね。

Q:最近マウス・ハープを演奏しませんね。新しいバンド編成にあてはめるのは難しいとお考えですか?

J:いや、そうじゃないんだ。忘れちゃったからなんだ。始めた頃にはハープ、マンドリン、ギターのどれもたくさん演奏したんだけど、ギターが注目されるようになってギターをたくさん練習するようになったんでギターに絞ったんだ。旅回りだとすべての楽器といい関係でいられる時間がなかった。あらゆる面でかなりいい仕事ができたのかもしれないけど、平凡なハープ・マンやギター・プレーヤーよりはほんとにいいギター・プレーヤーになりたいと決めたのさ。俺はいまスライド・ギターを演奏しているんだけど、レギュラーなギターとはまったく違っている。このバンドを始めるまでマンドリンもかなり弾いたよ。ハープはステージで扱うにはほんとに難しい楽器で、吹き続けていなければ上手ではいられない。そのことはずいぶんと考えたよ。

俺たちがやりたいことが広がって、ボビーとランディ・ジョーがベースとドラムスをとっ換えることを考えているとか、リックはぺダル・スチール・ギターを弾くとか、俺がマンドリンとハーモニカを演奏するとかね。俺たちはやることすべてについてほんとに上手にやる、そして俺たちができる限りいろいろなことをやる、そういう時間が欲しい。スチール・ギターを採り入れて、カントリー・ソングのようなものとかロックン・ロールのスチール・ソングとかブルースのスチール・ソングをやるかもしれない。俺たちは何でもできるし、このバンドは潜在能力にまだ近づいちゃいないんだ。

訳:東淀川スリム氏